No123 九 州 編(芦北町湯浦〜鹿児島県出水市昭和町)


芦北町湯浦の朝、一番に温泉に浸かる。
今日は曇りで涼しく、いい旅日和になりそう。
宿を発って少し行くと、肥薩おれんじ鉄道湯浦駅前になる。
最初、バス待合所かと思う様な、かわいい駅だ。
湯浦駅からしばらく行って、鉄道と川を渡り鹿児島街道と呼ばれる国道3号に出る。
そして、徐々に山道になる。
深い谷間の道になり、右腰痛が出だす。
特に休憩して歩き始める時に出て、ゆっくり歩いていると消える。
この鹿児島街道には、津奈木太郎峠、佐敷太郎峠、赤松太郎峠というのがある。
峠名に、○○太郎が付けられているのは珍しい。
また旧い道に、薩摩街道と書いた道標が建てられている。
南方向に薩摩、北方向に江戸とある。
この旅の最終到達地はお江戸日本橋。
なのに薩摩(鹿児島)に向かう旅人には、お江戸は遠のくばかり。

水俣まで3kmの標識がある辺りで、食事処があり昼食にする。
昼食後、しばらく行くと巨大な鉄道駅前に到る。
九州新幹線「新水俣駅」だ。
水俣の市街地は3km程先で、周囲はまだ何もない。
おそらく徐々に新市街地が形成されることと思う。
そして、それとともに旧市街地の活況は、徐々に失われてゆく。
道路でいえば、旧街道沿いから新しい国道沿いに街が移る。
さらに高速道路の建設に伴って、こんどは、まち全体が置き去りになる。
今の日本は、全国のあらゆる中小都市で、これに似た構図が生まれている。
効率化や生産性アップが優先される社会では、避けて通れない道なのだろうか。

水俣市の旧市街地に入ると、人通りも少なく淋しい雰囲気だ。
あの公害病「水俣病」の後遺症が、今も町に影響を与えているのだろうか。

水俣市は化学工業会社「チッソ」の企業城下町。
ところが、1950年代から60年代にかけて、この地周辺で原因不明の奇病患者が多数発生した。
この奇病は、水銀汚染による公害病と認定されるまで、長い歳月を要した。
日本の高度成長は、1955年(昭和30年)頃から1973年(昭和48年)まで続き、その間様々な公害病が発生した。
水俣病は、その先駆けだった。

今日の宿は、国道3号から一本鉄道寄りに入った旧道沿いにあった。
おれんじ鉄道水俣駅の近くで、13時40分に着く。
それでも女将さんは、直ぐに部屋に案内してくれる。
洗濯機も洗剤も使って良いと云うので、ズボンやベルトも洗って洗濯干し場に干す。

夕食の時、女将さんは、水俣病が公害病と認定されるまでの苦難話をしてくれた。
それまでは、水俣病は伝染病と思われ、街を通り過ぎるのに口と鼻を押さえて行く人がいたという。
この公害病による水俣の人達の苦難は、さまざまに報道されてきた。
しかし、こうした眼に見えない屈辱と悲しみは多くの人に知られることなく、今もこの地の人々を苦しめ悩ましている、と絶句。



次の日も晴れて、比較的カラッとした歩きやすい天気。
今日の旅は、いよいよこの旅の最南端鹿児島県に入る。
九州新幹線出水駅の前まで約18kmの短い旅。
元気良く宿を出たものの、なんとなく気分がすぐれない。
針原という所で、二度目の休憩をとって30分も歩かない内にへばってしまう。
休憩場所を探して海辺に出ると、大きな旅館の様な建物の裏で東屋の様なものを見つける。
木製の椅子と腰掛けがあり、その近くの板床には沢山の玉ねぎが転がっている。
持って来いの休憩場所で、腰掛けに座り込む。
梁には竹製の鳥かごがぶら下がり、中で一羽のメジロが動き回っている。
眼の前は石積みの小さな堤防で囲まれた船溜まりで、小舟が一艘入って来る。
そこで30分程ぼんやりして、元気を取り戻す。

そこを発って30分も経たないところで、ファミレス「ジョイフル」を見つける。
昼少し前で、これ幸いとばかり店内へ。
九州に入って、このレストランには良くお世話になる。
日替わりランチが579円と安い。

ファミレスを出ると、すぐにおれんじ鉄道米ノ津駅の前になる。
さらに進むと米ノ津交差点で、国道3号は国道447号と二手に分かれる。
その国道447号に進むと、沿道に派手な色遣いの店が並ぶ。
このところ全国で目立つ郊外に建設される新市街地だ。
現在、都市間の盛衰格差が進む中、ひとつの都市内でも同じ様なことが起きている。
多くのまちの旧市街地は、車社会に対応した交通問題や消費者の嗜好の変化に対処しきれない。
それではとばかりに、郊外にこうした新市街地が続々誕生する。
人の流れはそちらに向かい、旧市街地の中心商店街はシャッター街と化す。

いつもより休憩時間を長くとった旅だけど、九州新幹線出水駅前の宿に13時50分に着く。
玄関で声をかけても誰も出てこない。
仕方なく玄関に荷物を置いて出水駅へ行き、観光案内所で観光パンフ等を収集する。
そのパンフで、伝統的建造物群保存地区「出水麓武家屋敷群」というのを知り、行ってみることに。

そこは、駅から2km程先だった。
米ノ津川を渡り本町商店街を通り抜けた先の、やや高台にあった。

薩摩藩は鹿児島市内の鶴丸城を本城とし、領内各地に外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治したと云う。
そして、外城における統治の中心地で武家屋敷のあるところを麓(ふもと)と呼んだ。

麓は建設当時のままという広い街路と両側の石垣や生垣、庭の木々が印象的だ。
それに武家門と武家屋敷が垣間見えて、なかなかのものだ。
いくつかの武家屋敷が一般公開(年中無休、無料)されている。
その内の武宮邸に入る。
他に観光客はいないようで、一人静かに邸内を観て廻る。
質実剛毅な薩摩武士の気風が今も漂うようで気持ち良い。
一般公開されている施設以外は、現在も住宅地になっている。
そのせいか、いにしえから現在に至る生活の鼓動が聞こえてきそうだ。
かなり疲れたけれど、一見の価値があったと満足する。

宿の夕食の料理はおいしかったけど、今日は休肝日にした。



Back

Top

Next