旅館のそのときⅠ

旧東海道赤坂宿の旅館
駅前旅館
料理旅館
町屋の旅館

いにしえより人は旅をしてきた。 交易、防人、税の貢納、任地へ赴任、湯治、布教、寺社詣等々のため。 その旅には危険も多く、旅の途中で亡くなることも多かった。 長い旅では、その間の食料を持ち歩くのも容易でなく、夜露をしのぐ場所の確保もままならぬものだった。

やがて旅人の宿泊を目的にした村が発達し、それは、宿(しゅく)」と呼ばれた。 さらに時代が進み一般庶民の旅を可能にしたのは、「旅籠」が出現する江戸時代になってからである。 旅籠は、旅人のために食事と宿泊施設を提供するのをなりわいとした。 今日の旅館の源である。

それは、歌川広重の浮世絵版画「東海道五十三次」にみられる街道筋の旅籠だったり、 城下町、港町、門前町といった古くからある町中の旅籠であった。
旧街道筋の宿場町では、上段左の写真のように、当時の姿に近い形で残り今も旅館として使われているものもある。

しかし街道筋の旅籠は、その多くが鉄道の発展とともに廃れ、かわって鉄道駅前に新たな宿が出現した。 それが駅前旅館である。

一方、町中の旅籠は、まちの変遷に合わせ町屋の旅館として発展した。
鉄道の発達は大量輸送を可能にし、人々の動きが活発になった。 おかげで、駅前旅館も町屋の旅館も隆盛の時を迎えた。
特に日本の高度経済成長の時代は、家族旅行や職場旅行も盛んになり、全国の温泉地や観光地に大、中の観光・料理旅館が出現した。 昭和の時代には、そういう主要な駅に列車が到着すると、多くの旅館の番頭さんが宿の幟を立て客引きする場面が見られた。

それが車社会の進展とともに鉄道の利用客が減少し、さらに人々の価値観も変化し旅行動も多様化してきた。 それにともなって、「旅宿」も多種多様となり、新たに民宿、ホテル、公共の宿等の様々な宿泊施設が出現している。
そのため旅館は優勝劣敗の競争にさらされている。

また少子高齢化や経済構造の変化から、地方の多くの中小都市が衰退している。 その中のふるくからある旅館も同じ運命をたどっている。 しかし、古き良き時代の面影を多く残したまちは、その魅力を生かしたまちづくりで再生を図っている。 そういう町では、町屋の旅館がまちづくりのひとつの核を担っている。

戦後60年のそのとき、旅館はこうした大きな変化の渦中にある。

これを記している2009年の2月は、百年に一度といわれる世界的な大経済不況が進行中である。 日本の歴史と文化を担ってきた旅館の多くが、この荒波に飲み込まれるのではと心が痛む。