香美町の朝、目覚めると雨が降っていた。
宿を出る頃には晴れたが、風が強く冷たかった。
今日は新温泉町諸寄まで国道178号の一本道。
宿を出て直ぐに、民宿や旅館の看板が目立つ下浜交差点を過ぎる。
しばらく行くと山道になり、二つばかりトンネルを抜ける。
平地になって、道路脇にある郵便局のところで最初の休憩をとる。
元気になって歩き始めると、前方に道路を横断する白い看板が見える。
近ずくと、「さようなら余部鉄橋、ありがとう余部鉄橋 香美町」とある。
さらにその前方には、巨大な鉄橋が見える。
思わず、「そうか、これが有名な余部鉄橋か」と心の中で叫ぶ。
余部鉄橋は、山陰本線の景観ポイントのひとつで有名だ。
また昭和の終わりごろ、鉄橋を渡る列車が、強風で転落事故を起こし世上を騒がせた。
いちど行ってみたいと思うところだった。
それが、予期してない時に突然現れたので、何か拾いものをした気持ちになる。
その鉄骨の構造物は、高さ41m、長さ309mと巨大で圧倒される。
明治45年に完成したこの鉄橋は、近く取り壊され、新しいコンクリート橋に生まれ変わると云う。
あの道路横断看板があるのは、そのためだ。
橋下は小公園になっていて、そこに撮影ポイントも紹介されている。
そのポイントは山の上にあるので、荷物を背負ては無理と諦める。
余部鉄橋下で撮影をした後、狭い谷筋の道を行く。
少し疲れてきた頃、年老いた農婦に出会う。
歩いて日本一周している話をしたら、この先においしい地下水があるから、と教えてくれた。
行ってみると、道路横の山際にコンクリートで囲まれた塩ビ管から水が流れ落ちている。
ワンカップの空き瓶が2個置かれてもいる。
飲んでみると悪くはないが、少し寒いくらいなので余り飲む気にならなかった。
相変わらず強い風の中、黙々と歩く。
昼時になって、食事をとるところがないか、歩きながら探す。
見つからないまま、北陸本線浜坂駅前に到る。
そこでようやくうどん店を見つけ、力うどんを注文する。
昼食後、浜坂駅の待合室でガイドマップを見たりして休む。
そこを出て、山陰本線に沿って進む。
まもなく諸寄駅と諸寄集落が見える峠の様なところになる。
坂を下ると諸寄の海水浴場だった。
そこは、海側の山にトンネルを掘って国道178号に接続する道路工事の最中だった。
海辺にいた人に尋ねると、今日の宿は直ぐ近くと指さす。
行ってみると、海の家を兼ねる民宿棟は改築工事中だった。
隣接する木造2階建ての雑貨店に入ると、そこは宿主の店で自宅でもあった。
民宿棟は改築中なので、自宅の2階二間を使っても良いと案内してくれる。
ご主人は気さくな人で、明日の宿を探したいと云ったら、このパソコンを使いなといってくれた。
お陰で明日の鳥取砂丘に近い宿が、直ぐに見つかり予約もできた。
夕食は部屋のテーブルに、女将さんが魚料理をセッセと運ぶ。
熱燗を頼んだら、ワンカップの酒びんを湯沸かしで温めてくれた。
夜8時頃、階下のトイレへ行ったら、隣の浴室で風呂場に入ろうとする、すっぽんぽん姿の女将さんとバッタリ。
浴室のアコ―ディオンカーテンが開いたままだった。
おたがいビックリで、女将さんは風呂場へ私はトイレに駆け込んだ。
ほんの一瞬だったけど、フォトグラファーを自称する旅人は、自前のレンズでその姿をしっかりキャッチ。
海で育った女性らしく、引き締まったキレイなプロポーションでした。
諸寄の朝出発の時、宿のご主人が次の目的地「鳥取砂丘」までの地図を、パソコンを使ってプリントしてくれた。
今日も一路、国道178号を行く。
春ウララの絶好のウオーキング日和だ。
気分がよいせいか、アチコチにカメラを向け、なかなか先に進まない。
居組漁港のところで、目玉の大きい魚が串刺しになって干されている。
珍しい魚で写真に撮る。
すると、通りがかった女の人が「どぎ」と云うのよ、と教えてくれた。
居組漁港の荷揚げ場や漁船の撮影で時間を費やす。
そこからは、ヘヤ―ピンカーブもある急勾配の上り坂が続く。
途中、居組漁港を見下ろす展望所があった。
ここからの眺めが素晴らしく、写真撮影でまたまた時間を費やす。
そこからさらにくねくね曲がる道を行くと、県境の峠となり鳥取県に入る。
峠を下って平地に出た所で、国道から海沿いの旧道を進む。
すると山陰本線東浜駅前になり、駅待合室で休憩をとる。
待合室の窓から駅前の広場に石碑が建っているのが見えた。
何だろうと近づいてみると、駅設置の経緯等が記されている。
鉄道駅の設置に地元の先人達がいかに期待し苦労を重ねたか、と切々と書かれている。
そうして多額な地元負担までして昭和24年に出来た駅が、昭和47年に無人駅になってしまった無念さも綴られていた。
歩いて旅をしていると、このことは痛切な想いで実感する。
文明開化の明治の時代になって、陸の孤島と呼ばれる地域にも鉄道が敷設された。
線路が通されても、多くの集落には鉄道駅はできなかった。
そうした地域の人たちには、文明に取り残される想いから、鉄道駅設置は悲願となった。
願いがかなって、鉄道駅が設置されると他地域との交流が容易になり、駅を中心にまちが醸成されてゆく。
鉄道駅に続いて外界と繋がる道路も整備され、さらにまちは活況を呈する。
おそらくその多くは、昭和の後半にその絶頂期を迎えたに違いない。
やがて車社会を迎え、東浜駅の様に鉄道駅の乗降客が減り無人駅となる。
一方の道路は、さらにまちを迂回する新しいバイパス道路や高速道路が整備される。
人やモノの流れはそちらに移り、まちは再び取り残されてゆく。
そこへ少子高齢社会の波が押し寄せる。
平成18年の現在、旅をしていて目にする多くの地方の姿だ。
JR東浜駅から直ぐのところで、賑やかな子供の声が聞こえた。
地方を歩いていて、めったに子供の声を聞かない旅人は、うれしくなって近ずく。
小学校か幼稚園かの広い運動場で、大勢の子供たちがはしゃぎ回っている。
赤い帽子に揃いの空色のスポーツウエアーを着ている。
昼少し前だけれど、シートを敷いてお弁当をひろげたりボールをけったりして遊んでいる。
鉄道駅が無人駅になってしまった地域で、こんなに大勢の元気な子供たちに出会うのは感動ものだった。
再び国道178号に出て、浦富海岸の食事処でカツ丼定食の昼食をとる。
昼食後さらに国道178号を進むと、国道9号に接続する。
その大谷西口のところに小畑3号墳という家型石棺古墳が再現されていた。
この地方に有力な豪族がいたことを示すもので、興味深く写真に収める。
大谷西口からは峠道になり、峠を下ると道が二つに分かれる。
そこから右に、鳥取砂丘に向かう地方道を行く。
その砂丘道路には、自販機や休憩場所がなくのどが渇きクタクタになる。
ようやく「オアシス広場」という公園があり駆け寄る。
そこで自販機の缶コーヒーを飲む等してひと息つく。
オアシス広場から程なく広大な砂丘が見えてくる。
砂丘に向かって歩いて行くと、観光馬車が2台とラクダ2頭が観光客を呼んでいた。
美しい風紋を期待したが、観光客の足跡ばかりだ。
もっと全体を見渡せる場所がないか見廻すと、後方の高台に「砂丘センター」の名を掲げる建物が目に入る。
「砂丘センター」は今日の宿である。
宿の部屋の窓から砂丘と日本海が見渡せると勢い込む。
うまい具合に、近くのリフト乗り場から砂丘センターまでは片道200円で一直線だ。
砂丘センターのホテルのロビーへ行き、案内されたのは山側の部屋だった。
砂丘や日本海が見られる反対側でガッカリ。
ホテルを予約した時に、観光かビジネスかと問われたことを思い出す。
当然の様にビジネス料金を選択した結果なのだ。
夕食の時、ホテルの食堂で、2輪車で旅する大阪の若い女性ライダーと一緒だった。