長崎のホテルは、福岡で泊まったのと同じホテル。
朝食は、おにぎりの軽食サービス付だ。
朝から食欲旺盛で、おにぎり5個も食べて出発。
長崎の観光マップを頼りに、市街地を抜けて国道34号に出る。
大都会の朝は、早朝から騒々しい。
馬町交差点から、路面電車の路線と重なる。
その路面電車の終点「蛍茶屋」を過ぎて妙相寺道バス停で休憩をとる。
道の左側は大きなダム湖のようで、上り坂の先は二股に分かれる。
国道34号は二つの高架道になって、左方向に曲線を描く。
大きな二つのトンネルを抜けると、高速道路「長崎自動車道」と立体交差する。
そこを過ぎて、その名「大曲」の地名通り、ヘヤ―ピンカーブで大きく曲がると、日見の街に下る。
網場入口交差点辺りで休憩しようと周辺を見回すと、石碑の様な物が眼に留まる。
「長崎街道 日見腹切坂」と書いた石碑と三基の墓石、それに説明板が建っている。
説明板によると、むかし旅の武士が地元の郷士に剣術の試合を挑んだ。
ところが、その試合に負けて面目を失った武士は、腹を切って死んだと云う。
そのことから、そこを腹切坂と呼ぶようになったそうだ。
天気は曇りだけれど、少々蒸し暑く汗をかく。
休憩場所にバス停のベンチに座り込むことが多い。
たまたまバスが来て、乗らない私を不審がられることもあった。
矢上交差点を過ぎて再び長崎自動車道の高架下を抜けると、ファミレスがあった。
昼にはまだ少し早いが入る。
ハンバーグ定食(640円)とドリンクバーを注文して、長めの昼食休憩をとる。
昼食後、しばらく行くと諫早市域に入る。
喜々津カントリー入口付近から、JR長崎本線とほぼ並行する道になる。
貝津町交差点の先で道路幅が倍になり、国道34号は国道57号の二つに分かれる。
さらにその先で、国道57号は国道207号の二手に分かれる。
その国道207号を進み、JR諫早駅前に向かう。
JR長崎本線と島原鉄道線を横断してすぐに左の道を行くとJR諫早駅前になった。
駅の観光案内所で観光マップを収集する。
今日の宿「ヘルシーバルいさはや」は、そのマップに載っている。
しかも、駅から500m位の距離だ。
勇んで行くと、それは県合同総合庁舎、税務署、検察庁舎といった施設が集まる用地にあった。
電話帳で公共の宿泊施設となっていたので、どんな施設かと思っていた。
着いてみると、えらく立派な建物だ。
長崎保健福祉センター内にある宿泊施設だと云う。
加入している
健康保険によって、宿泊料金が違うともいう。
つまり、国民の健康保険料で造られた施設だ。
かんぽの宿が簡易保険料から、休暇村施設は年金基金で建設されたのと同じ仕組みだ。
いろんな形で国民から集められた資金が潤沢な頃、全国に次々を建設されたもの。
この歩く旅では、かんぽの宿と休暇村には何度もお世話になっている。
ただ、この健康保険関連施設は、初めての利用だ。
しかし、バブル経済がはじけて以降、どの資金もその使い道に厳しい国民の目が注がれるようになった。
それはともかく、建物内に入ると、トレーニングルームや花、料理の講座施設がある。
そして、それに見合った格好の人の出入りもある。
窓口で宿泊施設階にある部屋のキーと朝と夕の食券を渡される。
部屋は普通のホテル並みの洋室で、食事は食堂でとる。
食堂へ行くと、宿泊客はわたし一人の様だ。
宿泊施設面では何の不満もないけど、宿としてはなんとも落ち着かない雰囲気。
次の日は、曇りのち晴れの予報。
昨日来た道を戻って、国道207号に出る。
本明川を渡ったところで、川沿いの道を下流に向かう。
所々に、川を横断する様に飛び石が置かれている。
昔の街道の道筋に橋代わりに設置されたもので、昭和の中頃までは主婦たちの洗濯場としても使われていたと云う。
本明川の公園橋を渡って、諫早公園に立ち寄る。
この公園には、国指定重要文化財の「眼鏡橋」がある。
天保10年(1839年)に天明川に架けられた二連アーチ式の石橋だ。
昭和32年の大水害にも見事耐え抜いたという。
本明川の幅員拡張工事によって、ここに移築復元された。
諫早のシンボルだそうで、たしかに秀麗な姿だ。
眼鏡橋に感心したが、水辺に群生する「かきつばた」にも目を奪われる。
緑の葉と紫の花がすばらしい色合いで咲き誇っている。
力強く生き生きとした世界だ。
そして水面に眼をやると、水面上にのぞいた岩で微動だにしない二匹の亀。
こちらは、全くの静寂の世界。
この二つの世界に、しばし釘づけになる。
諫早公園からは、諫早の中心市街地を抜けて国道57号に出る。
ここからは、島原鉄道線と並行する道となる。
黄色の一両電車が旅の友となる。
諫早東高校の近くで食事処があり、昼少し前だけれど入る。
カツ丼定食(840円)にする。
昼食後、少し進むと愛野という交差点で、国道57号と国道251号の二つに分かれる。
有明海沿いの島原鉄道と並走する国道251号に進む。
吾妻町(現雲仙市)の市街地に入り、郵便局で旅費の補充をする。
郵便局を出てしばらくすると、左側に諫早湾潮受け堤防が見える。
壮大な構築物で、どういう訳か写真を撮るのを忘れてしまう。
瑞穂町の国道右側に大きな岩がひとつ置かれている。
手前の小さな岩には、銘版がはめ込まれている。
銘版は、「平成新山百景の地 みずほ(この岩は平成新山の溶岩です)」と書かれている。
そう、ここ島原半島は普賢岳とその噴火でできた傾斜地で成り立っている。
何代にもわたって、ゆるい傾斜地に営々と石を組んで築かれた段々畑。
そうした苦労が結実した農村風景は、どこか端正な美しさがある気がする。
雲仙市国見町神代の宿には、16時半頃に着いた。
途中で「歴史的建物保存地区」の案内板があった。
それで、宿の女将さんに場所を尋ねて出かけることに。
保存地区は、島原鉄道「神代駅」を挟んで宿のある市街地と反対側にあった。
水路に囲まれた旧武家屋敷が残る一帯のようだ。
「歴史民俗資料館」の前で若い学芸員に出会う。
資料館はまだ準備段階だけれど、館内を案内してくれた。
縄文時代からの遺物を陳列しているところだった。
その中で、古代の役人がベルトに付けた方形の石が珍しいモノと云う。
石は役人の位を表したそうだ。
観終わると、来館者名簿を出して署名するようにという。
そうすることで、わたしは資料館の第1号来館者になった。
夕食時、宿の食堂で二人の女性と一緒になった。
地元の小中学校の同窓会に出席し、明日帰るところだと云う。
出席した同窓会の話から初恋談義になった。
わたしの姉の世代だけれど、二人の初恋体験を楽しく話してくれる。
わたしは中学時代は内向的で、恋とも言えない薄い淡雪の様な想い出しかない。
そんなわたしには、眩いばかりの話。
わたしの世代以前は、この時代はまだまだデイトなどは難しい状況だったように思っていた。
今は大阪と千葉で暮らすお二人は、同窓会にはいつも出席するという。
こうした素晴らしい思い出が、遠くに住む二人を故郷に引き寄せる力になっているのだろう。