連泊した次の朝は、雨も上がり晴れた。
気温が上がりそうなので、いつもより早い7時50分に宿を発つ。
宿を出て直ぐに、一目で長崎オランダ村の入口と分かるところになる。
キレイな建物で、5年も前に閉村になったとは思えない。
今にも、観光バスが続々到着するのを待つかのようだ。
そこからしばらくは山道が続く。
琴海町(現長崎市)に入ると、再び大村湾沿いの道になる。
きんかいパーキングという所で休憩する。
大村湾の入り江、形上湾沿いに南下すると、琴海町役場のある長浦に到る。
そこから海を離れて、再び海に出る手前で、見覚えのある旅館名が眼に入る。
それは、当初の計画で宿泊を予定した旅館だった。
隣接して同名の食堂があり、入ってみる。
昼少し前だけれど、昼食に唐揚定食(840円)を食べる。
昼を過ぎると、気温が25℃を超えて夏日となる。
歩く旅は、暑さに弱い。
ついつい日陰を選んで歩く。
西海交差点で東に向かい、大村湾の南岸沿いの道になる。
登呂福という名のバス停では、集落の屋根越しに見える大村湾に魅せられる。
そこから先も、集落、段々畑、小島そして海の組み合わせのバリエーションが、眼を楽しませてくれる。
今日の宿を予約した時、ホテルの場所は国道206号沿いにあるベスト電器の建物が目印と教えられた。
そのベスト電器が見えた時、その先に予約したホテル名を屋上に掲げた白いビルも見えた。
予約したホテルは、他の目印等必要のない目立つ場所にあった。
大村湾の最南端に、長崎空港と高速艇で結ぶ「時津マリンターミナル」がある。
ホテルは、そのマリンターミナル前にひときわ高くそびえる5階建ての建物。
西側からやってきた国道206号は、東からの国道207号と接続する。
その時津町交差点は、マリンターミナルの南200m程のところだった。
朝8時前に出発したので、ホテルに着いたのは15時半頃。
洗濯は、コインランドリーのある明日のホテルですることに。
そして、部屋で大相撲をのんびりTV観戦する。
夕食はホテルのレストランで、ミックスピザ、冷奴それに生ビールにする。
夏日の生ビールは、ことのほか美味い。
生ビールは半額サービスというのもあって、ついもう一杯となった。
次の日も晴れた。
今日はいよいよ長崎入りだ。
長崎の中心部までは、時津町交差点から国道206号を真直ぐ南下すれば10km程の距離。
のんびりと長崎のまちを散策しながら行くとしよう。
国道206号の沿道は、早くも都会的雰囲気だ。
しかも、山の斜面は、はい上がる様にまちなみが押し寄せている。
やがて、路面電車も見えてきた。
子供の頃、名古屋で育った私たちの一番の交通手段は路面電車だった。
おもわずすり寄りたくなるほど懐かしい。
この赤迫駅は終点で、折り返しの電車に乗れば、JR長崎駅前へ行けるらしい。
その誘惑を抑えて、さらに南へ下る。
大橋交差点を過ぎてしばらく行くと、平和公園の案内標識が。
平和公園に入って行くと、あの巨大な平和祈念像が見える。
この像の前に立った時、遥かむかしに同じように立った記憶がよみがえる。
もう40年程前の大学生の頃だったろうか。
しかし、記憶の彼方からは、この像しか浮かんでこない。
それから、公園から遠くに見える浦上天主堂へ。
そこで、原爆の生々しい傷跡を観て、原爆資料館にも立ち寄ってみる。
原爆資料館では、ボランティアの人が付いていろいろ説明してくれた。
どの話も悲惨さで声も出ない。
なかでも強く印象に残ったのは、浦上天主堂を建てたキリスト信者の話。
この地には、江戸時代の弾圧や明治の配流の苦しみを味わった隠れキリシタンの人達がいた。
その後、ようやく信教の自由を得た信者が、原爆投下の時に14,000人もいた。
その内の8000人以上が、原爆で命を奪われたという。
この事実は、キリスト教社会の人達に余り知らされていないそうだ。
「神はその時、不在だったのか?」と、唸るしかない。
原爆資料館を出て、宝町交差点近くの食事処で昼食にし、皿うどん(600円)を食べる。
こんなのんびりした旅でも、宿には13時半頃に着いた。
このホテルは、JR長崎駅から500m程先の五島町にあった。
まだチェックインには早い時間なので、フロントに荷物を預けて市内散策に出かける。
さて、どこへ行こうか。
江戸幕府は、鎖国政策をとるなか、ここ長崎出島でオランダとの通商だけは許した。
それ以来、長崎は1636年から1859年の218年間、我が国唯一の外国窓口となる。
そのせいか、日本人の心のどこかに、長崎は「異国情緒のある街」の漠然としたイメージがある。
そんなまちを背景にすると、いろんなドラマや詩が生まれる。
昭和世代のわたしは、生い立ちの過程で、いつも長崎のまちを詩にした歌謡曲を耳にしてきた。
まずは、藤山一郎唄う「長崎の鐘」から春日八郎唄う「長崎の女(ひと)」、青江三奈唄う「長崎ブルース」、
内山田洋とクール・ファイブ唄う「長崎は今日も雨だった」、瀬川瑛子唄う「長崎の夜はむらさき」だ。
なかでも、青江三奈のハスキーな歌声
逢えば別れがこんなにつらい
逢わなきゃ夜がやるせない
どうすりゃいいのさ思案橋
は、青春の思い出と共に今も耳に残る。
そんな訳で、路面電車に乗って「思案橋」まで行ってみる。
電車通りは華やかな店が並ぶが、歌の世界ではない。
路地裏を彷徨い、歌の雰囲気を探す。
しかし、夜輝くまちは、昼間は化粧を落とした素ッピンの顔。
むなしく引き返して、出島の復元された商館建造物群を観て廻る。
いったんホテルに戻って、コインランドリーで洗濯と乾燥を済ます。
それから、夕食に街へ繰り出す。
市街地散策の時に気にかかった「インド料理店」に入る。
店内はすでに若い男女でイッパイだった。
なんとかひとつ席が見つかり腰を下ろす。
メニューからマトンラーマカレー、サラダ、ハーフナンとライスそれに生ビールをオダ―する。
久し振りに人声が飛び交う中で食事するのは心地よい。
そして、料理も生ビールも文句なく美味しかった。
満足気分で店を出て、帰りは長崎港の岸壁沿いを歩く。
オペラ「マダム・バタフライ」では、蝶々夫人が港を眺め、海軍士官の愛しい人、ピンカートンの船が入港して来るのを待ち焦がれる。
その場面設定は、ロマンの香りする美しい港に違いない。
だが現実の長崎港は、過酷な歴史に翻弄された姿だった。