むかし、奥州三関といわれる勿来、白河、念珠(鼠ヶ関)という名の三つの関所があった。
かの松尾芭蕉は、「奥の細道」で次のように記している。
心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ
北茨城市平潟港の宿を発って一時間も経たないうちにJR勿来駅前に着いた。
駅舎やその周りは、関所をモチーフにしたデザインで「勿来の関」ゆかりの地であることをアピールしていた。
東北の地に足を踏み入れたのだという実感が、いやがうえにも高まった。
これからは、いろいろ未知の体験が待っているのだと期待も膨らんだ。
ひとり旅がいよいよこれからが本番とわたしの旅心も定まった。
ところが、そこから陸前浜街道といわれる国道6号の道は、そんな感慨を吹き消すような景色になってきた。
山を切り開いた道路となり、左右の沿道は人家はなく緑の山ばかりとなった。
どうやら、新しい国道バイパス道路の方に来てしまったらしい。
それで、滝尻の地名がある立体交差点で海側に抜ける道を選んだ。
すると今度は、化学プラント工場等がある大規模工業団地の中に入り込んでしまった。
房総半島の旅でも体験したが、歩く旅では、大規模工業団地を通り抜ける時ほど味気ないことはない。
そこを通り抜け、いわき市小名浜の商店が立ち並ぶ県道に出た時はホッとした。
しかも、通過してきた商店街は活気を失っていることが多かったが、小名浜商店街通りは明るく元気な雰囲気があってなんだか嬉しくなった。
やがて、濃い藍色と緑色が混じったいわきの海が見えてきた。
いわき市永崎の浜辺である。
そこからは、ずーと海辺に沿って歩く。
中之作港や江名漁港といった小さな港に入り込み漁師の生活をのぞいたりもした。
やはりサラリーマン生活とは、違った時間が流れているようだ。
浜辺と港のみちを北上するうちに、断崖の上に灯台が見える小さな漁港に着いた。
灯台は、塩屋埼燈台だった。
崖の上に出てみると、大勢の人で賑わっていた。
美空ひばりが歌う「みだれ髪」のメロデーが流れていた。
そこに美空ひばりの遺影碑と「みだれ髪」の歌碑がたてられており、そこから歌が聞こえる。
髪のみだれに 手をやれば
紅い蹴出しが 風に舞う
憎や恋しや 塩屋の岬
投げて届かぬ 想いの糸が
胸にからんで 涙を絞る
「みだれ髪」は、昭和の歌姫といわれる美空ひばりの晩年(1987年)のヒット曲である。
観光客の中に、大きな花束を遺影碑に捧げている女の人がいた。
この塩屋の岬には、塩屋埼燈台にまつわるもうひとつ有名な話しがある。
「みだれ髪」がヒットしたちょうど30年前の1957年に、灯台守夫婦を主人公にした映画と主題歌が大ヒットした。
木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」である。
この映画は、塩屋埼燈台長夫人田中きよの手記をもとにして、ロケーションもこの地でなされたそうだ。
この付近の海は、潮の流れが激しく暗礁も多い船の難所である。
一方で、この岬から先は、沢山の海鳥が群れをなす荘厳な雰囲気の砂浜が続く。
若山 彰が歌う同名の主題歌は、一般に普及し始めたころのテレビで大人気だった。
この頃、テレビは家族団らんの中心にあった。
我家でも、家族みんなでこの歌を聴いた記憶がある。
まだ家族のきずなが強く、男は地道な仕事に誇りを持てた時代だった。
よほど何度も聞いたせいか、いまでもこの歌は思い出せる。
俺ら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯をかざす
灯をかざす
冬が来たぞと 海鳥啼けば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼びかける
呼びかける
天気は良いが、風が冷たくウインドブレーカ―ははずせない。
「喜びも悲しみも幾歳月」の詩は、力強く明るく、このあと訪れる日本の高度経済成長を予感させるものだ。
それに対し、「みだれ髪」は、悲しく哀感漂い、その後のバブル経済とバブル破たんを感じとった、高度経済成長社会への惜別の歌ではなかったか。
海鳥が群れをなす砂浜を歩きながら、そんなことをふと思った。
旅立って8日後に、足のマメの手当ては一切何もしないことにした。
絆創膏などの手当をすると、マメが破れず水分が溜まってどんどん大きくなるばかりだったからだ。
そのため、放置してしばらくはマメが破裂して痛みがひどかった。
けれど快復が早く、いつのまにかマメと痛みは消滅した。
広野町に入ると、「さくら前線」がいつの間にか私を追い抜いたようで、満開の花びらが出迎えてくれた。