いよいよ銚子から東京日本橋に向かう朝を迎えた。
快晴の天気だった。
旅館の女将さんと孫の3歳になる女の子が見送ってくれた。
まずは女将さんがぜひ立ち寄るとよいと勧めてくれた飯岡町の刑部岬をめざした。
国道126号沿いの風景で最初に印象深かったのは、廃屋となった民家やラブホテルが目立ったことだ。
なかでも、歴史を感じさせる農家の屋敷の門塀に、売り出し中の張り紙が貼ってあったのは驚きだった。
まだ実感のなかった少子高齢化社会のしのびよる影を見る思いだった。
飯岡刑部岬は、標高66mで東京日本橋まで108km(筆者注:房総半島横断ルート距離)の位置にあるとのことだ。
その刑部岬の「光と風の展望台」からの眺めは、たしかにすばらしかった。
南側は、飯岡灯台と黒潮が押し寄せる太平洋が広がっている。
西を望めば、下記の写真のように眼下の飯岡漁港とその先に大きな曲線を描く九十九里の浜がみえる。
西北方向には、刑部岬から連なる台地上に巨大な風力発電の風車が海に向かって並んでいる。
反対の東の方向には、標高約60mの絶壁に荒波が押し寄せる「屏風ヶ浦」がある。
わたしは、房総半島といえばいつも「九十九里浜」の名がうかんでくる。
子供のころから、房総半島の地図を見ると、ゆるやかな曲線を描く長大な海岸線に引き寄せられた。
そしてなにかしら魅かれるものがあって、いつか行ってみたいと思っていた。
実際に行ってみると、想像していた以上に長大で美しい浜だった。
行けども行けども、どこまでも白い波と砂浜が続くのだ。
九十九里浜は、飯岡町(現旭市)の刑部岬から一宮町東浪見までの約66kmの海岸である。
この海岸にそって、街道が、さらに海側には遊歩道が整備されていた。
旅の最初の3日間は、街道と遊歩道を交互に歩いた。
余談になるが、九十九里の約66kmの海岸は、13もの市町村(現9市町)に分割されている。
こんなに細かく行政区域が分かれているのは、全国でも珍しい。
これは、おもに漁業をなりわいにしてきた歴史や独立独歩の漁民が多い特性によるものだろうか。
この浜辺には、大勢のサーファーで賑わっていた。
日本でも、こんなにサーフィンが盛んだとは思っていなかった。
10月も末で海水も冷たいだろうに、若者たちは元気いっぱいだった。
そんな若者たちを見ていると、わたしもうれしくなって彼らの写真を撮った。
雲間からシャワーのように陽が射して、海面や波はキラキラと輝き夢のなかにいるかのようだ。
波打ちぎわを歩くと、知らぬ間に、新婚のころよく聴いた小椋佳の「しおさいの詩」をくちづさんでいた。
しおさいの浜の岩かげに立って
しおさいの砂に涙を捨てて
思いきり呼んでみたい 果てしない海へ
消えた僕の 若い力 呼んでみたい
房総半島の旅、そして日本一周の旅でもある最初の3日は、このような幸先の良いものだった。
しかし、最初の10月23日、午後6時頃に宿のコインランドリーで洗濯していたら地震が起きた。
その時は、後に「新潟県中越地震」とよばれた、M6.8、震度7、死亡者68名の大地震とは思いもよらなかった。
ちょうど、5年前の今日である。被災し亡くなられた方たちのご冥福を祈るばかりである。