今日は四日市市まで30kmを超える旅になる。
朝食は途中でとることにして、いつもより1時間早く出発。
気温が下がっているけど、かえって身が引き締まる。
今日も国道23号の一本道で四日市へ。
歩き始めて1時間ほど過ぎ、コンビニ店に入る。
サンドイッチと缶コーヒーを買い、店前の駐車場で朝食にする。
河芸町上野というところで、大きなスーパーの様な建物が見えた。
24時間営業、年中無休の文字が大きく書かれてある。
昭和の時代、新婚の時に起きた第一次石油ショックが頭をよぎる。
テレビの深夜放送は禁止で、銀座などのネオン照明も制限された。
それがいつの間にか、こうした町にも一年中、照明の消えない店がある。
これは「社会の進歩」なんだろうか。
平坦な道で、これまで考えられなかった速さで歩く。
休憩も10~15分とれば充分でピッチが上がる。
鈴鹿市の北玉垣交差点の所でレストランがあり入る。
まだ正午前だけど、朝食がサンドイッチと缶コーヒーだけだったせいか、お腹が空いた。
それに快調な歩みで気分がよく、ステーキセット(1953円)の大フンパツ。
昼食後は、平坦だった道に異変が。
国道は、田んぼ地に高く盛土された道。
片道2車線の1車線が低地部に下ると、それと一緒に歩道も下ることに。
そのため、歩く人は、その度にアップダウンを繰り返す。
新しく造られる国道は、まさに車優先。
ここはまだ、歩道があるだけマシの方。
そんな道でも良いことがあった。
高い道路から見下ろす田園風景には、時折りハッとさせられる。
黒っぽい田の地に、黄色や薄緑の草地が帯状に縞模様をなす。
冬場の何気ない風景だけど、空の雲と日射しのコンビネーションで絶妙な色合いになる。
そんなのどかな風景も、鈴鹿大橋を渡ると一変した。
紅白の縞模様に塗られた高い煙突が何本も立ち、そこから白煙が舞い上がっている。
四日市石油化学コンビナート。
高度経済成長期(1960~1972年)に、このコンビナートから発生した大気と水質汚染が大問題になった。
「四日市公害」と呼ばれる深刻な環境問題だった。
いまはこの白煙が目立つ程度で、空気はキレイ。
そんなことを考えながら、コンビナート地帯を抜ける。
JR四日市駅前には15時半頃に着いた。
国鉄民営化前に、出張の帰りこの駅に途中下車したことがある。
国鉄駅周辺は何もなく、そこから1km程離れた近鉄駅周辺が賑やかなのに驚いた。
両駅をつなぐ街路は、だだ広いだけで沿道も淋しかった。
鉄道が交通の主役だった頃、鉄道駅はその街の玄関だった。
そして、私のイメージは、主玄関は国鉄駅で民営駅ではなかった。
しかし、四日市では、それが逆転していた。
この現実は、当時盛んになった国鉄民営化の必要性に通じるものだった。
それが気になり、今回も両方の駅をみたかった。
相変わらず国鉄駅前は駅舎ビルがポツンとある淋しい感じ。
それに比べて、近鉄駅は人も多く賑やかで、今日のホテルもその近くにあった。
ただ変わったのは、両駅を結ぶ街路沿いに市役所の庁舎が建っていた。
そして、ただ広いだけの印象だった街路は、樹木がすっかり生長し緑の都市軸を形づくっている。
夕食は、ホテル近くのレストラン街で、さぬきうどんセットを食べる。
今日はいよいよ故郷の愛知県入りする。
生まれ育った名古屋市の隣、蟹江町の温泉ホテルに宿泊予約した。
と云うのも、親友の奥村君が宿へ激励に来てくれると云うので。
それなら、ゆっくり酒を酌み交わし歓談できる宿が良いと決めた。
今日はその温泉ホテルまで約27kmの旅。
昨日来た国道23号は、四日市の市街地で国道1号と並行する。
今日はホテルから近い国道1号を行く。
歩き始めると、「東京日本橋まで395km」の道路標識が。
国道1号の終点・東京日本橋は、この旅の最終目的地点でもある。
ようやく最終地点が見えてきた想いと、今夜は親友に会えることで心が浮き立つ。
ホテルを出て30分程して川を渡る。
朝日を浴びた川面に眼をやると、シラサギの群れが。
やはり今日は、いっぱいイイことがある予感。
四日市市から川越町、朝日町へと進むにつれ、昭和のまちなみが現われる。
瓦屋根に黒っぽい板塀の民家は、生まれ育った名古屋のまちなみと同じ雰囲気。
故郷は近い。
そんな時、まさに「昭和食堂」の看板を掲げた店が現われる。
昭和の映画ポスターも掲げて、まさに「なつかし処」の演出。
入ってみたい気がするけど、昼時前でまだ開店していない。
写真に収めて、近くのコンビニで休憩をとる。
その次に休憩したのは桑名駅前。
JRと近鉄の駅がやはり背中合わせになっている。
ここは、JR駅側が表玄関で、駅前に広場があり、その周辺にデッキ、ビルが建ち並ぶ。
駅前広場周辺をぐるーと回ってみる。
何か落ち着かず、10分程で出発する。
桑名といえば「焼はまぐり」で有名だ。
そのにおいが漂う道を行くと、すぐに揖斐川と長良川に架かる「伊勢大橋」に到る。
「伊勢」で思い出すことがある。
戦後間もない子供の頃、リヤカーを引いて「いせこうこ、いらんかなー」のかけ声。
「いせこうこ」は、秋田のいぶりがっこに似たタクアン。
もんぺ姿の婦人で、子供心にも品のある声でキレイな人だった。
今思うと、戦争未亡人が生活のために必死に働く姿だったように思う。
あの婦人も、リヤカーを引いてこの橋を渡って来たのだろうか。
橋の右手には、環境問題で議論の多い「長良川河口堰」が見える。
橋を渡ると、揖斐川・長良川と木曽川に挟まれた「輪中」と呼ばれる砂州の島になる。
ここでカレーチエン店「COCO壱番屋」があった。
関東でもよく見かけるようになった店で、初めて入る。
メニューからカツカレー(650円)をオーダーする。
カレー店を出ると間もなく、木曽川に架かる尾張大橋になる。
木曽三川と云われる揖斐川・長良川・木曽川はどれも大河だ。
遠い昔、その先は「東(あずま)の国」と呼ばれて、大和文明圏の外にあった。
子供の頃、こんな経験をした。
名古屋の家の近くに住んでいた叔母が四日市に引っ越しをした。
しばらくして会った時、叔母はすっかり関西弁になっていて驚いた。
木曽三川を挟んで、言語、味覚、風習の違いが今に残る。
今でこそ整備されているが、その昔はこの三川が交流の大きな障害になったことは想像できた。
まだ夜に咳が出る。
しかし、結構長く歩き続けられる。
休憩しても疲労の回復が早い。
蟹江町の温泉ホテルには16時前に着いた。
尾張温泉と云われるが、子供の頃はなかった新興地。
温泉ホテルがひとつある程度と想像していた。
意外や大きなホテルが二つと温泉センターがあり、道端には足湯施設まである。
さっそく温泉大浴場に入り、部屋に戻ってメールや明日の準備を済ませ友人を待つ。
彼が来てホテルのレストランでイッパイやろうと思ったら、ここは宿泊客だけだと云う。
それではと、温泉センターへ行くと、こちらは19時30分で閉店。
それでホテルの周辺で中華店を見つけて入る。
奥村君は幼馴染でもあり、親友中の親友だ。
お互いに励まし合って、ここまで来た。
逢えばすぐに話は弾む。
わたしの旅の話をツマミにと思ったけど、いつの間にか彼の最近の話ばかりになる。
それだけ今の彼の生活が充実しているからと、聞き役に回る。
お互いに明日もあるので、奥村君は21時頃タクシーを呼んで帰る。
ホテルに戻って、また温泉に浸かり床につく。
夜にまた咳が出て、大汗をかいた。