名寄市のホテルは、ロールパン、ゆで卵、コーヒーの朝食サービスがあった。
ロールパン3個とゆで卵2個をコーヒーと一緒に食べて出発する。
今日も暑さはさほどでもなく、午前中は快調に歩く。
ただ道中にはバス待合所はなく、休憩場所が見つからず困った。
仕方なく道端に腰を降ろして休み、フトかたわらに眼をやる。
すると、野草の吸い込まれそうな深いみどりにハッとさせられることがあった。
こんな体験も、歩く旅ならではのこと。
北海道は、今が一年で一番良い季節なんだろうか。
農家の庭先には、花が咲き誇って華やいだ雰囲気が伝わって来る。
さまざまな農機具までも、出番を控えてうれしそうだ。
こんな時、いつの間にか旅人の口から鼻歌がもれる。
だが、やがて疲れが出て、いつしか鼻歌も消える。
旅の後半には、左足首辺りに痛みがでる。
今日は美深町まで21kmの短い旅で助かった。
宿はゲストハウスの名が付いた小さなビジネスホテルだった。
部屋は8畳の和室に広めの洋式トイレ、バス、洗面所付きで快適だ。
何の不満もない宿だけれど、何か物足りない気がした。
それは、小さな個人経営の宿なのに何かよそよそしい感じがすることだ。
良く考えれば、旅館と違ってホテルなので接客よりも宿機能を重視した宿なのだ。
だからホテル側は、客の中に余計な立ち入りはしないだけのことだ。
孤独な旅人は、きっと宿でのコミニュケーションに飢えているのだ。
次の日、ホテルを発つ前に、受付のカウンター越しに立つご主人に写真を撮らせてほしいと頼んでみた。
若いご主人は、気持ち良く応じてくれた。
ホテルを出てすぐにセブンイレブンがあり、おにぎり3個とポカリスエット、牛乳を買う。
牛乳はその場で飲んで、歩き出すとホテルの看板が見える。
一瞬、同じ名前のホテルがここにもあるのかと思った。
しかしよく見ると、泊ったホテルである。
コンビニを出て、来た方向に歩き出してしまったのだ。
今回は早く気づいたけれど、前にもこのような事があり10分位のロスをしてしまった。
気を付けているけれど、余程ぼんやりしていたのだと反省、反省。
道の駅「びふか」に着くと、大勢の観光客で賑わっている。
夏休みに入って最初の日曜日のせいか、家族連れが多い。
そんな雰囲気につられてソフトクリームを買う。
昼食後は、日射しが強まり疲れやすくなる。
バス待合所どころか、平原で木陰すらない。
やっと見つけたのは、高さ1m程の草の葉影で、その下に潜り込んで休む。
草陰から平原を覗くと、遠くに鉄道車両が1両で走り抜けて行く。
名寄から美深町、音威子府への道は、名寄国道と呼ばれる国道40号線である。
この道は、JR宗谷本線それに天塩川と並走する。
手持ちの道路地図に書かれた距離数では、美深町のホテルから音威子府村の旅館までは26kmの距離だ。
天塩川温泉入口を知らせるトーテムポールを見てしばらく行くと、咲来(さっくる)の名がついた交差点に着く。
そこの道路里程標の距離から計算すると、そこで26kmになる。
JR音威子府駅近くにある宿までは、まだまだ先のようだ。
焦りと疲れがどっと出てくる。
結局、宿はそこから5kmも先にあった。
音威子府の宿に着いてひと息つくと、食事の用意ができたというので階下の食堂に行く。
食堂には誰もいなくて、ビールを頼もうと大声で呼んでも返事がない。
奥の暗い部屋には誰か居るようだけれど音沙汰なしだ。
仕方なく宿の浴衣から服に着替えてビールを買いに外に出ようとしたら若い主人が来た。
それでようやくビールにありつくことができた。
音威子府から次の目的地の中頓別町までは41kmもあり、一日で歩いて行ける距離ではない。
さいわい、中間の敏音知(ぴんねしり)と云うころに1軒だけ温泉ホテルがあった。
そこに予約の電話をすると、明日は休館日で明後日ならOKだという。
それで、ここ音威子府の旅館に連泊することに。
前にも記したように、地図を眺めるのが好きだった子供の頃、音威子府の地名に釘づけになった。
その名前の由来は、アイヌの言葉からきていることが子供でも分かる。
北海道の奥深い地で、当時は国鉄宗谷本線と天北線の結接点でもある音威子府駅に、いつか行ってみたいと夢見たものだ。
連泊した日の午後、そのJR音威子府駅に出かける。
宿からはすぐのところにあって、交通ターミナルも兼ねた現代風の木造駅舎になっている。
駅売店のそば屋で昼食に天ぷらそばとおにぎりを食べる。
それから、駅員に断ってホームに入り写真を撮る。
折よく一両の車車がホームに入ってきた。
数人の乗降客があって、ホームを後にする車両にカメラを向ける。
その後ろ姿は、去りゆく昭和のように見えた。
駅舎内には資料館があって、平成元年に廃線になった天北線の記録写真等が展示されていた。
鉄道全盛の頃は、ターミナル駅として栄えた音威子府駅及びその周辺市街地が、今は風前の灯のように見える。
そんな想いを抱いて、道の駅「おといねっぷ」に行ってみる。
その館内に「天塩川資料室」と云うのがあり見学する。
そこで、江戸から明治にかけて蝦夷地の踏査等で活躍した松浦武四郎と云う人をしる。
松浦武四郎は、特に天塩川の詳細な地理調査を行い、「北海道の名付け親」でもあるそうだ。