日本一周てくてく紀行

No.55 北の大地編②(紋別市~西興部村上興部)

紋別のまちを発つ日は、天気予報ではくもりだった。
しかし、晴れ間も多く気温は20℃位で快適だ。
オホーツクの波打ち際に下りて、その水を飲んでみる。
気分が良いせいか、うまみのあるやわらかいショッパイ味がした。

オムサロ原生花園と云うところで休憩する。
砂丘にできた湿地と草原には、濃いピンクのハマナスが盛りに咲いている。
遊歩道が整備されていて、数人の若い男女が散策している。
海岸には、大きな流木に「流氷岬」と書かれた立て看板が取り付けられている。
ひとりベンチに腰を降ろして、そんな風景を眺める自分がいる。
遠くオホーツクの果てまで遣って着た孤独な旅人の映画シーンを見るようだと苦笑する。

今日の道行きは、どこまでもまっすぐ延びて行く一本道だ。
いつもだと単調で疲れが出てくる。
しかし今日は、右側のオホーツクの海と左側の緑の草原が、眼を楽しませてくれる。
オホーツクの濃い紺色の海は、水色の空とそこに浮かぶ大きな白い雲と組み合って、雄大な美を展開する。
草原の方も刻々と変化する空からの光を受けて、ハッとする美しい緑のバリエーションで魅了する。
それを写真に撮ってみるけれど、なかなかとらえ切れないのが悔しい。

一方でよく目に付いたのが鉄道橋だ。
平成元年5月に廃止された旧国鉄名寄本線の廃線跡である。
名寄本線は、まさに昭和の時代に活躍し、その時代が終わると同時に幕を降ろした。
廃線となった後の線路は自転車道路等に、鉄道駅は交通公園にというように再利用が図られたりする。
しかし、川に架かる鉄道橋は放置されることが多い。
その姿を見ると、昭和世代は見過ごすことができず、つい駆け寄ってみたくなる。

今日の宿は、興部町の宗谷国道(238号)と天北国道(239号)の交差点近くにあった。
女将さん明るい人で、いろいろと話しかけてくれて楽しい。
例の田崎さんが2日前にここに泊ったことも教えてくれた。
田崎さんは女将さんに、警察に職務質問されたことがあったと話したそうだ。
わたしも、怪しげな旅人の一人と見えるに違いない。

興部町からオホーツクラインとも呼ばれる宗谷国道を真直ぐに北上すれば宗谷岬に至る。
ところが、興部町から浜頓別町の間は、一日歩行距離内で宿を確保するのが難しい。
そこで、内陸の名寄市を抜ける天北国道をたどって迂回することにした。

次の日は曇り時々小雨の天気で、歩くのにはちょうど良かった。
今日の旅は、西興部村の上興部まで30kmの行程だ。
その間は、食事処などなさそうで女将さんにおにぎり弁当をたのんだ。
朝受け取ると、大きなおにぎりが3個あった。
天北国道は、宿の近くの交差点が基点で、500m毎に里程標が設置されている。
どれだけ歩いたかはそれを見れば直ぐ分かり、歩くペースを立てやすかった。

天北国道で良いところが、もう一つあった。
それは、4~6km毎にバス待合所があることだ。
鉄道がなくなり、この地の人たちにとっては、バス停がまさに駅なのだ。
だからバス待合所は、大切に維持されている。
小雨の道中で休憩するのに、この待合所は本当にありがたかった。
休憩や昼食にバス待合所を利用させてもらったお礼に、去る時にはほうきで掃除をすることに。

午前中は、昼食までに16kmと行程の半分以上も進むことができた。
午後になると、バックが肩に食い込み3km毎に休みをとるようになる。
沿道も、「注意エゾシカのとびだし」の幟が立つ程の山道だ。
時折り平地に出れば、廃屋となった民家や廃校が目立つ。
特に上興部中学校跡地には、昭和22年5月開校、昭和60年閉校の石碑が眼を惹いた。
少子高齢化社会の到来を叫ばれて久しいが、この地ではすでに昭和の末期に訪れていた。
昭和の時代には、元気な子供たちがイッパイいたことをあらためて思う。

上興部の宿は、まさに街道沿いの旅館だった。
電話で予約した時は、女将さんが出てなんとなく無愛想で心配だった。
宿に着いた時は、ご主人が応対に出て丁寧で感じがよかった。
ご夫婦とも80歳を超えられているようだ。
女将さんは耳が遠いようで、それで電話では無愛想に聞こえたのだ。
ご夫婦で懸命に維持してきた感じの旧い旅館だけれど、清潔で感じの良い宿だ。
トイレが様式でしかも広くて気持ち良かった。