東松島市(旧鳴瀬町)から国道45号線を通って石巻市に入った。
ここから海沿いの道、国道398号線で真直ぐ西に向かう予定を立てていた。
しかし、この道沿いの宿の予約がとれず、そのまま45号で内陸の道をたどることになった。
直角に曲がって北へ、ちょうど北上川に沿って旅することになる。
この道は、いわゆる中山間地域(都市的地域及び平地農業地域以外の地域)を通り、今までにない景観や体験ができるのではと期待が膨らんだ。
しかし、この日も陽射しが強く目の周りが少し水膨れのようになった。
加えて、車の排ガスと暑さで疲れやすかった。
そんな時、道の駅「上品の郷」に出会った。
地元産の木材をふんだんに使った「休憩施設}と「地域振興施設」が一体となった道路施設である。
何よりもうれしかったのは、真新しい畳み敷の休憩室があったことである。
ここで、仰向けになって休んだら、ずいぶん身体が楽になった。
この2日後にも、道の駅「津山」があり、やはり木の香りいっぱいの施設だった。
道の駅は、ドライバーが休憩のために駐車する施設が、相当区間にわたって整備されていない区間に設置されるという。
つまり周辺に休憩場所がない不便な所にあることが多いので、歩く旅人にとっても大変ありがたい施設である。
道の駅は平成3年から始まり、平成22年の現在には全国で936ヶ所にもなるという。
日本一周徒歩の旅では、本当にお世話になった施設である。
道の駅「上品の郷」を発ってまもなく、上流から流れてきた北上川が大きく東に曲がるところにでた。
そこに架かる「飯野川橋」を渡ると河北町(現石巻市)で、この日の宿は町の中心市街地にある。
国道45号から東にそれて、中心市街地の中を歩いて行くと、なにか懐かしい雰囲気である。
沿道には、魚屋、米屋、床屋、薬局店、時計店、洋品店等々の個人経営店が並んでいる。
昭和の時代におおいに賑わいを放った景観である。
いまやおおくの地域では、こうした店は廃業に追い込まれているが、ここはまだ健在のようだ。
道行く人に、この日の宿への道を尋ねたら、親切に教えてくれて迷わずに宿は見つかった。
次の日、河北町から津山町(現登米市)まで約14kmは、北上川に沿った道である。
北上川は、岩手県から宮城県まで流路延長249kmの大河である。
東北1位、全国でも4位だそうだ。
勾配がかなり緩いのが特徴の大河である。
北上川と聞くと、昭和世代のわたしは、すぐに昭和36年に大ヒットした歌「北上夜曲」を思い出す。
匂いやさしい 白百合の
濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上河原の 月の夜
この歌にジーンとくるのは、昭和世代までだろうか。
いまの若者には、この歌の感情は理解できないのではないだろうか。
もともとこの歌は、昭和16年にうまれ、作詞者菊池 規氏は18歳、作曲者安藤睦夫氏は17歳だったといわれる。
青春時代に男女の交際がおおっぴらに出来なかった戦前はもちろん、戦後も昭和の時代まではそのなごりは続いた気がする。
何事も個人の自由を尊ぶ戦後教育を受けたわたしも、青春時代、女性にたいして行動よりも夢を追い求める傾向が強かった。
還暦をとうに過ぎて振り返れば、そうしたせつない青春時代を持てたことは幸せだったと思える。
岩手県河上市の河畔に、この歌の歌碑が立っているそうだ。
この日の行程は、この北上川の土手を行くつもりだった。
しかし、北上川の自然をできるだけ壊さないという国の方針で、歩いて行ける状態になっていなかった。
それでも、河原に出て川の水に触れてみようと水辺まで下りてみた。
その時に撮ったのが、上記の写真である。
土手を歩いて行くことをあきらめて、一の関街道と呼ばれる国道に戻った。
ところが、この国道には歩道がなく2車線の幅員がやっとある状態だった。
おまけに、沿道に大きな採石場があり、ダンプトラックが頻繁に往来する。
ダンプとすれ違うたびに緊張と恐怖を強いられた。
津山町の宿は、料理旅館できれいな建物だった。
しかし、女将さんは旅人の容姿をみたのか、案内してくれたのは別棟の旧館の方だった。
昭和の時代、多くの旅人が泊ったと思われる部屋だった。
女将さんは、この日、地方選挙の投票日とかでバタバタ動き回り、客のことはすっかり忘れたかのようだった。
それでも、部屋に運ばれた夕食は、料理旅館の名に恥じないものであった。