今日は糸魚川市のJR糸魚川駅前まで約14kmの短い旅だ。
昨日はロングな雨中行で、その疲れもあり朝はゆっくりする。
能生町の宿は、北国の宿場町の雰囲気が漂う街道沿いだ。
宿を発って、その街道をゆっくりと進む。
街道沿いの町屋は間口の軒下が広く、これは積雪対策なのだろうか。
こうした街道筋を歩くと、不思議と気持ちが和らいでくる。
さらに進んで、能生町の中心市街地を通り抜けると再び国道8号に出る。
能生川を渡り、国道を離れて久比岐自転車歩行者道路を行く。
この道は、国道よりも高いところを通り眺めがよい。
休憩は、自転車も人もほとんど通らないこの路上にシートを敷いて休む。
集落の瓦屋根の向こうに果てしなく広がる日本海を眺めながら。
その自転車歩行者道路は、浦本と思われる漁村集落入口のところで国道8号を渡る。
そこに、「久比岐自転車歩行者道路出入り口」のゲート看板が立っていた。
そこをくぐって、漁村集落の海岸の道を行く。
時折り集落の路地裏に入り込んだり、小さな漁港を覗いてみる。
しかし人の声がしない静けさが、何か物足りなく寂しい。
昭和の時代は、どこでもこうした路地裏を駆け回る子供の声が聞かれたものだ、と思ったりする。
漁村集落を抜けると、コンクリート堤防が続き、浜辺はゴロゴロする丸い小石ばかり。
自転車歩行者道路の終点、糸魚川市押上で昼時になった。
市街地方面入口となる交差点近くで食堂を見つけカツ丼を注文。
注文した後、昼食にカツ丼が多いことに気付き、チョッと苦笑。
そこからJR糸魚川駅前までは30分ほどで着いた。
今日の宿は、駅近くにあって1階は食事処を経営する小さなビジネス旅館だった。
次の日は秋晴れの好天で、気持ちの良い朝を迎えた。
今日の旅は、親不知、子不知の難所を抜けて、いよいよ富山県に入る。
宿を出て、糸魚川市街地の中央通りを通って国道8号に入る。
ほどなく小さな玉砂利だらけの姫川を渡る。
天気がよいせいか、ほぼ1時間毎に15分休憩のピッチで順調に歩む。
JR青海駅近くの港町交差点を過ぎると、子不知の難所になる。
親不知、子不知は、日本アルプスの山系が日本海に落ち込む断崖絶壁の地だ。
古来より、北陸道最大の難所といわれてきた。
その昔、平清盛の弟頼盛の夫人が夫を追ってこの地を通る時に、2歳の愛児をふところから取り落し波にさらわれてしまったという。
その悲しみを詠んだ
親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく
の歌が、地名の由来になったと云う伝説も哀れだ。
子不知は、北陸本線青海駅から親不知駅の間の海岸を指すそうだ。
親不知は、その先親不知駅から市振駅の間を指す。
両方合わせると15kmにもなる断崖絶壁の海岸が続く。
しかし、親不知、子不知の難所は、今や遠い過去の話になった。
明治16年に古道よりも100m高い断崖を削って、最初の国道が建設された。
その国道は砥石の様に滑らかに、矢の様に早く通れると、人々は喜んだという。
その後、トンネルを抜ける別ルートも出来て、最初の国道は親不知コミュニテイロードと呼ばれる遊歩道になった。
さらに現在では、海上に「北陸自動車道」という高速道路までも建設されている。
道の駅「親不知ピアーパーク」で昼食をとる。
この日は気分を変えて、カキフライ定食にする。
そこから旅人は、遊歩道を一人のんびりと歩く。
断崖絶壁の景観を楽しみ、この地の歴史を想う、歩く旅のダイゴ味はまさにこれか、と思いながら。
お陰で2時間近く休憩もとらず行くと、市振という集落に着いた。
不覚にも知らなかったけれど、ここ市振の集落は、味わい深い歴史を残すまちだった。
越中と越後の境にある宿場町で、古来より名高い「市振りの関」があったという。
「天下の険親不知」を越えてきた旅人が目指した「市振りの松」は今も健在だ。
弘法大師ゆかりの井戸もある。
そして何よりも、あの松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ
一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
は、ここ市振りの宿でのこと。
その宿は焼失して、いまは「奥の細道 市振の宿 桔梗屋跡」の碑が立つている。
市振のまちの歴史を味わい、その先にあった道の駅「越後市振りの関」で休憩する。
越後から越中(富山県)に入ると、陽は大きく傾き夕もやにつつまれる。
北陸本線越中宮崎駅横を通り過ぎると、直ぐに、大きな宿名の看板を掲げる建物が目に入る。
それが今日の目指す宿だった。
昔、親不知の難所を越えてきた旅人が、市振の松を見つけた時もキッとこうだったに違いない、とホッと肩の力を抜く。
その宿は大きな料理旅館で、3階の部屋からはヒスイ海岸と呼ばれる美しい松林と浜辺が見下ろせる。
夕食は旅館自慢の料理を前に、女将さんが話し相手になってくれた。
石川文洋さん、三国連太郎さん、大林素子さん等の著名人が宿泊した時のエピソード等。
旅人にとって久し振りの楽しいオシャベリタイムだった。