日本一周てくてく紀行

No.17 ひたち・みちのく編(登米市~気仙沼市)

登米市(旧 津山町)からは、北上川から離れて東へ東浜街道(国道45号)を行く。
こんどは、JR気仙沼線に沿う旅である。

山間の道がつづき、少し疲れてJRの横山駅で休憩することにした。
駅の階段に腰をおろして休んでいると、中学生と小学生だという地元の二人の少女がやってきた。
携帯電話を持ってなにやら楽しそうである。
話しかけてみると、携帯で音楽を聴いているのだという。
わたしでも平成22年の現在ならいざしらず、5年前の当時は少々驚きだった。
こうした田舎で、小中学生がそれぞれ携帯電話を持って音楽を聴く時代になったのかと。
自分の子供が育った後、子供の世界からずーと遠のいていたことを思い知った。
駅をバックに二人の写真を撮らせてもらった。
後で写真を送るために、名前と住所を聞きたかったけれどためらいがあって出来なかった。

当時、子供にたいする犯罪が多発しており、ひとり旅の旅人がこれ以上踏み込んではいけない気がしたのだ。

山間を抜けて、折立という国道45号と398号が交わる交差点を過ぎると、大きな視界が開けた。
志津川湾である。
湾の中は、おびただしい数の養殖用のブイが一面に浮かんでいた。
聞けば、海苔、牡蠣、ワカメ、ホヤ等の養殖がさかんだそうだ。

今日の宿は、志津川町(現 南三陸町)にある「国際観光民宿」である。
「国際観光旅館」とか「国際観光ホテル」というのは聞いたことがあるけれど、「国際観光民宿」ははじめてである。
これを冠した今日の宿の看板が何か所もあって、歩く旅人にとって少し敷居が高いのではと心配した。
宿に着いてみると、若い女将さんらしいかわいい女性が笑顔で迎えてくれた。
建物も新しく、案内された部屋もきれいである。
部屋からの眺めは、上記の写真のように素晴らしい。
光明石とかの温泉もゆっくり浸かって文句ない気分であった。

そして、さらに驚くのが夕食である。
左記の写真のように、海の幸がところ狭しと並べられていた。
エビ・赤貝・タコ・イカの舟盛り、まぐろの刺身、カブト煮、ホヤ、昆布の酢のもの、ホタテ貝、シラス、白魚のフライ、ナマコ、ウニの10品目である。
当時、テレビでよくやっていた「網元民宿の食事」というのはこれかと思った。
これで、宿泊代込みで6800円である。
歩いてやってきた甲斐があるというものだった。

旧志津川町袖浜から旧本吉町(現 気仙沼市)までは、リアス式の海岸に沿った道である。
同様にアップダウンの激しい地形を行く鉄道は、高いところはトンネルで通し、低い平地のところは橋梁にして線路が急勾配にならないようにしている。
そのため、JR気仙沼線の駅は、最初の写真のようにプラットホームは高いところにあって、利用客はキツイ階段を上り下りしなければならない。
気仙沼線の多くの駅は、無人駅でこの駅の構造、デザインとみな同じになっていた。

そしてこれらの駅は、わたしの格好の休憩場所だった。
高いところにあるホームの待合室は、静かで涼しく眺めもよかった。
待合室のベンチに腰をおろして、線路を超えて先の風景をぼんやり眺めていると、気持ちが和み疲れも抜けていくようだった。。
りくぜんみなと駅では、列車で気仙沼に行くという青年に出会った。
桜田という名前で19歳だという。
私の話しかけに快く応じてくれて、写真も撮らせてくれた。

やはり、人と楽しい会話ができると、疲れも取れ元気になる。
りくぜんみなと駅から少し行くと、黄色い幟を持った団体に出会った。

幟には、「健康みやぎ21 南三陸眺望味覚街道 唐桑~石巻120k 観(完)歩しよう」と書いてある。
文字通り、みんなで歩く旅を楽しもうとする年輩者たちだった。
聞かれて、北海道まで歩いて行くと話したら、「上には上がいるもんだ」とみなさん驚いた様子だった。

この日は、人と話をしたり、美しい小さな漁港に立ち寄ったりと楽しい道のりだった。
しかし、行程は30km近く、起伏の激しい道でもあった。
変化に富んだ景観に魅了され撮影などにも時間を費やした。
午後3時が過ぎて、予約した宿がある大谷海岸までまだ8kmとの道路案内をみた時はあせった。
大谷海岸には、道の駅があるのでひたすらそこに向かって急いだ。

道の駅に着いたら、宿に電話して宿までの道順を尋ねようと思っていた。
しかし、電話するまでもなく、宿は道の駅の目の前だった。
道の駅とJR大谷海岸駅はほとんど一体になっていた。
宿の部屋の窓から見ると、その駅は写真のように指呼の間であった。

JR大谷海岸駅は、「日本一海水浴場に近い駅」がうたい文句になっていた。
まさに、ホームを出ればすぐに、松林と長大な砂浜がつづく美しい海辺に出られる。