船橋に着いた日は、体調が最悪の日だった。 足のマメだけでなく身体のあちこちが順繰りにいたんだ。 今日の宿は、JR船橋駅近くの観光案内所で簡単に見つかると思った。 しかしその案内所はなく、いっそう疲労感をおぼえながら電話帳で宿を探した。 そうして見つけたホテルの部屋には、転がり込むように入った。 ベッドの上で仰向けになってしばし休むと、少し落ち着いた気分になった。 しばらくして、明日はもう東京日本橋だということを思い出した。 そうしたらゲンキンなもので、急に元気が出てきた。 今夜は、房総の旅で最後の夜だ。そうなら打ち上げをしようと、急いでシャワーを浴び 夜の街へ繰り出した。まだ、足腰の張りや痛みがあって泳ぐような足取りで。
次の朝は快晴だった。歩き始めると足の痛みもなく、ビックリするほど体調がよい。 昨日までのことがウソのようである。調子にのって飛ばしすぎないようにと、気持ちを 抑えなければならないほどだった。
江戸川は、千葉県と東京都の境を流れる川である。
船橋を立って2時間ほどで、この川のたもとに着いた。
この少し上流には、寅さん映画でおなじみの「柴又帝釈天」や「矢切りの渡し」がある。
江戸川の土手から東京方面を眺めると、いろんな感慨がわいた。
房総半島を歩き切ったという満足感や江戸に向かうむかしの旅人は、ここで何を想っただろうかなどである。
余談になるが、私の妻の父方の先祖(岡崎藤七)が、天明元年(1781年)に茨城県緒川村から関西方面への旅をした。
そして、その時の記録を「西国道中記」として残している。
それによると、藤七一行は成田~船橋~行徳と着て、この江戸川から舟に乗って「らかん前」に着いたとある。
「らかん」は、東京都江東区の地下鉄新宿線西大島駅付近にあったとされる「五百羅漢寺」のことと思われる。
近くに小名木川が流れており、その川に架かる小名木川橋のたもとに「五百羅漢道標」というのが今もある。
だから、下船したのは、このあたりではなかったかと思う。
五百羅漢寺を巡ってその日は、馬喰町の木賃宿に泊ったとある。
舟賃六十六文、舟はらい四文。宿代は、米七十二文、木銭六十四文と記されている。
(一般に江戸時代は、そば代が十六文だったといわれる)
江戸川を渡れば、東京日本橋はもうすぐなのだ。
一歩一歩が日本橋に近付く気がする。
道路標識や里程標に日本橋の名が頻繁に出てくるようになって気も高まってくる。
そんなあせりからか、日本橋といっても「東日本橋」方面に出てしまった。
携帯電話のナビを使ったり近くの案内板を見ても、「日本橋」への道順がわからなかった。
地名ではなく、日本の道路起点となっている文字通りの「日本橋」は、意外と分かりにくいのだ。
通りがかった人に何度もたずねて、ライオン像がのる橋の高欄が見えた時は、本当にうれしかった。